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劉樹林教授 細菌系統(tǒng)學の長年の難題をクリア
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本誌記者 劉婷 · 2017-10-25 · ソース: |
タグ: 醫(yī)學;細菌系統(tǒng)學;文化 | ![]() 印刷 |
比較ゲノム學研究領(lǐng)域の権威であり、ハルビン醫(yī)科大學薬學院の院長を務めたこともある劉樹林教授(63歳)は學生らと共に力を合わせて難題に取り組み、ついに細菌種のグループ間の明確な遺伝的區(qū)分を解析した。この研究は、細菌の天然種をどのように定義するかという細菌系統(tǒng)學における長年の難題を解決し、明晰でデジタル化可能な客観的根拠を提示した。
劉氏はかつて、死の危険に瀕したことがある。1996年にカナダで研究を行っていた頃、上あごに悪性腫瘍が出來た。「當時真っ先に頭に浮かんだのは、數(shù)十年かけてやろうとしていたことを數(shù)年の計畫に変更することでした。私のような癌患者の5年生存率は8%だったからです」。しかし持ち前の気力と生物醫(yī)學研究に攜わった時の経験が活き、同氏は奇跡的に癌を克服した。近年はHIVワクチンの新キャリア研究に盡力し、一連の重要な研究成果を挙げている。
學を志して2萬キロ
劉氏は松花江下流の広大な土地で育った。幼少期に病気を患った経験から、幼いながらに醫(yī)學の道に進みたいという想いが萌芽。高校卒業(yè)後は病院で働き、數(shù)年間臨床検査に従事した。この期間に、1000種以上あるサルモネラ菌の內(nèi)チフス菌のみが人體に腸チフスを引き起こすという事実に対し強い興味を持った。同氏はこの疑問を抱えたまま、1977年にハルビン醫(yī)科大學に入學。卒業(yè)後は北京醫(yī)學院に入學し免疫學の修士號を取得した。
1985年秋、劉氏は日本に渡り國立岐阜大學の藪內(nèi)英子教授に師事し、藪內(nèi)教授は彼を細菌系統(tǒng)學の分野に引き入れた。この時劉氏は、チフス菌に関する疑問を解き明かすには、まずチフス菌とその他のサルモネラ菌をゲノムレベルで比較し差異を見つけ、科學実験を行い検証する必要があると考え始めたのだ。しかし當時、日本でこの研究計畫を遂行することは不可能だった。
1990年春、日本で博士號取得後、劉氏はカナダを?qū)W術(shù)研究の地に選んだ。カナディアン?ロッキーの麓に位置するカルガリー大學にて系統(tǒng)的な方法論を打ち立て、代表的なサルモネラ菌にゲノムの物理地図レベルで充分に緻密な比較研究を行った。また物理的尺度から細菌のゲノムを比較?分析する世界的研究領(lǐng)域を切り開いた。
1990年代初め、世界には他にもいくつかの著名な研究チームが同じことを試みていた。しかし劉氏が確立した方法論には獨自の優(yōu)れた點が多くあったため、1993年から、この科學領(lǐng)域で活躍しているのは世界中で劉氏のチームのみとなった。1993~1996年の間に、同氏は世界トップレベルの學術(shù)雑誌にて10編以上の革新的な論文を立て続けに発表し、細菌ゲノム進化研究を新たな方向へと牽引した。2000年、劉氏はカナダ政府および現(xiàn)地自治體から合わせて複數(shù)口の研究経費を同時に手にし、このことは北米では奇跡といえるだろう。
半世紀にも及ぶ祖國と母校への想い
劉氏は1985年から日本へ、またその後はカナダへ渡り、長い間祖國を離れていたが、2002年2月に中國へ帰國した。その頃にはすでに世界の科學研究領(lǐng)域で獨自の分野を確立していた。
帰國した理由について、劉氏は以下のように語っている。「帰國して研究を行うことは、國を出る前から決めていたことです。學部生の頃、恩師である李紹賢教授は私が彼の下に殘ることを望んでいました。帰國すること、また母校に戻ることも當初は恩師の気持ちに応えようとした結(jié)果でした。1990年に日本で博士號を取得した後、元々帰國する予定でしたが、私の研究計畫を遂行するためには北米かヨーロッパに行くしかなかったのです。私は1990年から獨自の研究分野を築き始め、1996年には基本的な形が整ったので帰國しようと思いました。しかし1997年に國內(nèi)の狀況をみたところ、中國ではまだこの方面の研究條件が揃っていませんでした。もしも今帰國したら研究を中斷することになると考え、カナダに戻り研究を続け、新しい成果を生み出し続けたのです」。
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